先日「立夏」を迎えて、暦の上ではいよいよ夏。
(2021年の立夏は5月5日水曜日でした。
ちなみに、2022年の立夏は5月5日木曜日です)
むろん「本格的な夏」はまだ先です。
でも、そこまで行ってしまうと、うだるような暑さがやって来てしまいますから、いまごろの季節、すなわち「初夏」がとても過ごしやすくて気持ちのいい季節であるということ、これは同意いただけることと思います。
そんな「初夏」を歌った唱歌に『夏は来ぬ』があります。
じつに美しい曲で、ぼくも大好きですけれど、なにぶん明治29年=西暦1896年に発表されたもの。
つまりおよそ120年まえの歌ですから、内容的に意味が通じにくくなってきている面があるのがちょっと残念ではあります。
そもそも、曲名からしてちょっとわかりにくくなってますよね。
このまま書いてあったら現代の日本語では「夏は”こぬ”」って読んでしまいますでしょう。
これじゃあ夏がやってこないって意味になっちゃいます。
ですからこれは現代語ではなくて文語(ないし古語)です。
で、じつはこの「ぬ」が曲者なんです。
なにしろ、古語においても「否定」の意味で使われるんです。
たとえば百人一首に「来ぬ人をまつほの浦の夕凪に…」という歌があります。
これは「来ない人」という意味ですから現代語と同じです。
でも、これとは別に「完了」をあらわす「ぬ」もあるんです。
たとえば有名な文学作品のタイトルでは「風と共に去りぬ」とか「風立ちぬ」があります。
「完了形」っていうと英文法が思い浮かびませんか?
あの、「have+過去分詞」の完了形です。
はじめて習ったとき、なんだかピンとこないなあって思いませんでした?
これは無理もなくいんです。
なぜなら、現代の日本語の文法には完了形と過去形の明確な区別がありません。
でも昔の日本語にはあったんですね。
つまり「夏は来ぬ」って、英語で言うとしたらら「Summer has come !」なんです。
「夏がやってきたんだ、夏になったんだ」という気持ちが込められているんですね。
と、まあ、曲名からしてすでにそうなんですが、歌詞も現代ではだいぶ通じにくくなっています。
たとえば1番には「卯の花」とか「ほととぎす」なんていう自然の風物が出てきます。
「卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」
どちらも古くから初夏のものとされて、万葉集でもたくさん歌われているんですが、現代ではどうでしょう、「卯の花」「ホトトギス」と聞いてだれもがすぐ初夏を思い浮かべるかどうか。
花や野鳥が好きな人、もともと興味がある人でないとちょっと難しいんじゃないでしょうか。
でも、卯の花も、ホトトギスも、なくなっちゃったわけじゃありません。
こういうのって、もったいないことだなあといつも思うんですが、とはいえ、なかなか身につかないんですよねえ。
ちなみに2番は比較的わかりやすくて、山あいの水田の田植えを描いています。
ただし、唄の中で田植えをしているのは女性で、これを「早乙女」と呼んでいます。
「さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ」
「早乙女が着物の裾を濡らして苗を植える」と歌っているんですが、現代は機械化されていますから、この光景そのものを見ることはもうできません。
でも、思い描くことはできるし、田植えがすんだ水田の青々とした様子はまだまだ味わうことができますよね。
それからラストで「ホタル」が出てきます。
「五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
水鶏(クイナ)鳴き 卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす 夏は来ぬ」
かなり少なくなってしまったとはいえ、ホタルは初夏の風物として今でもじゅうぶん通用します。
近年、ホタルをご覧になりましたか?ぼくはかなりご無沙汰していますから、今年は見に行きたいものだと思ってますよ。
こんなふうに、四季の変化に富んだわが国には季節ごとに美しい風物がたくさんあります。
これはとても幸せで恵まれたなことです。
時代の変化はいたしかたありません。
けれども、持続可能なものであるならば、受け継いで残していきたいものですね。
さあ、夏は来ぬ。
みずみずしい季節、初夏がやってきました。
- テーマ:立夏=初夏=夏は来ぬ
- この「来ぬ」は否定ではなくて完了をあらわしている
- 『夏は来ぬ』は初夏の自然の風物が盛り込まれた歌
- でも、現代ではピンとこないかも…もったいないことではある
- 季節ごとに美しい風物がたくさんあるのは幸せで恵まれたこと
- 持続可能なものであるなら、受け継いで残していきたい